特別なこと

備忘録

修二と彰にはまった話

忘れもしない二月の三日だった。

いつもより少しだけ早めに帰宅して、夕食を摂りながらぼうっとMステを眺めていた。2005年のJ-POPを月間ランキングで振り返るという内容だったと思う。

ここで一応断っておくけれど、それまでジャニーズ、というか男性アイドルには全く興味がなかったし、好きな歌手はメディアには出ていなかったので音楽番組もほとんど見なかった。そんな私が過去のヒット曲特集に興味があったわけもなく、そのときテレビでMステがついていたのはほんとうに偶然だったのだ。

ケツメイシのさくらが超ロングヒット、という文字を無感動に目に入れて白米の咀嚼を続けていると、それを短期間で追い上げたという修二と彰の特集が始まった。ほんとうに名前と曲名くらいしか聞いたことがなかったので、「修二と彰って山Pと亀梨だったんだ」と言った記憶がある。彼らのバックに人気ジャニーズのメンバーが多くついていたということも言われていたような気がする。

ナレーションまじりに曲がはじまり、ステージに立つ二人が映し出された、そのときだった。

口が開いた。箸を落とした。誇張ではない。

端的にいうと、驚いた。こんなに美しい人間がいてもいいのかと思った。どうしようもなく目を奪われた。この二人をリアルタイムで見ることができたであろうにもかかわらずそれをしなかった2005年の私に嫉妬した。

VTRは、修二と彰よりも目立った中島裕翔くんや山田涼介くんらJrのピックアップと、その影に隠れてしまった塚田くんらJrがかわいそうだ*1というスタンスを貫いていたが、そんなことはもはやそのときの私にとってはどうでもよかった。正直、もう修二と彰しか見えなかった。

彼らのVTRが終わってすぐ、放心状態だった私がはじめに発した一言は「……エロ……」だった。興奮しすぎて具合が悪くなり、その日はすぐに寝た。

おかしな誤解を生みたくないので弁解しておく。エロいというのはすなわち官能的ということで、それは生命力と密接に結びついていること、だと私は勝手に解釈している。ステージで歌い踊ることによって生きる彼らの生命力にあふれた姿に官能を感じるのは至極当然のことだし、アイドルである自分を自分たらしめるために自分の最も美しい姿を惜しげもなく余すところなく見せる姿はとても、とても魅力的だと思っている。その流れでKAT-TUNにもはまったのだけれど、その話は別の機会にしたいと思う。

話を戻す。そもそも、どこに惹かれたのだろうか。風とスポットライトを全身に浴びて燦然と輝く二人の姿、必死にも聞こえる訴えかけるような声変わりしきらない歌声、懐かしさを呼び起こす曲調と男二人の青春懐古的な歌詞、亀梨の恍惚の裏に思春期特有の諦観を押し込めたような表情、山下のどこか苦しそうな追い詰められたような表情、生命力にあふれたダンス、背中合わせに歌う少年と青年の狭間にある十九歳と二十歳の男二人、その儚さと危うさ、尊さ……いろいろなことを知った今だからこんなふうにいろいろなことを言えるけれど、違う。あのときの私が感じたものはもっと直感的なものだった。だって、何も考えられなくなった。何かを考える暇なんてなかった。動悸が止まらなかった。一瞬にしてからだがかっと熱くなった。

少しだけ時間が経った今も、修二と彰青春アミーゴの何が私の心をそこまで揺り動かしたのかは全くわからない。それどころか、修二と彰がステージに立って歌うのを見ると、言葉では表しきれないもやもやしたものが胸の底に降り積もっていくのを感じる。最初に感じたものとはちょっとだけ違う、もっと複雑なものだ。でも、不快ではない。何度も何度もそれの正体がなんなのか考えてみたし、それの正体を知りたくていろいろな動画を見てみたけれど、つかめない。いつか、この気持ちがうまく表せるような言葉に出会えたらいいなと思う。

ただ、三週間前にくらべて彼らについてかなり多くの事物を見て知ったことで、思ったことがある。彼らは、あの若さにしてみずみずしくはない。潤っていない。何かに飢えていて渇いていて、ひりついていて、時折ナイフのようなあまりに鋭いまなざしをみせる。確かに美しくアトラクティブだけれど、満たされた美しさではない。たとえるならば壊れた彫像のような、散りかけの花弁のような痛々しい美しさ。それは、当時の彼らの背景にあったあまりに有名な葛藤に確実に影響を受けているだろうし、もしかしたら大人たちに意図的につくりあげられたものなのかもしれない。亀梨が屈折した修二を表現するため痩せることを蜷川幸雄に強いられたという話も聞いたことがある。しかし、だからこそ彼らはあそこまで人気が出たのだろう。事実、私は彼らの暴力的なほどの美しさに、焦燥に、棘に、エロスに、生き急ぐ姿に魅せられたのだ。しかもそれは二十歳の山下智久と十九歳の亀梨和也にしか生み出せない。

ここまでつらつらと書いてきたけれど、私はまだ野ブタ。をプロデュースを見ていない。今週末やっとまとまった時間ができたので、一刻もはやく借りてきて見たい。

 

そして二月十八日、私が修二と彰に夢中になっていた最中発表された、山下智久亀梨和也スペシャルユニット・亀と山Pの結成発表。叫んだ。泣いた。気が狂いそうになった。二月三日からすべてが仕組まれていたのかとさえ思った。嬉しくて嬉しくて、涙も拭わないまま友人*2に手紙を書いた。修二と彰に落ちた日とは対称的に、その日は一睡もできなかった。一晩中、この世に生まれてきたことに本気で感謝した。

しかしそれと同時に恐ろしくもあった。修二と彰という伝説の再来が、なぜかとても悲劇的に感じられたのだ。修二と彰という存在を伝説と言ってほしくないという人もいるかもしれないが、少なくとも私がはまった時点で修二と彰修二と彰ではなかった*3わけで、もう私にとっては伝説としか言いようがなかった。なんて言ったって、伝説は終わるのだ。

でも、翌日の新聞や告知を見て、その考えは変わった。十二年前よりふっくらした頰で幸せそうに微笑む亀梨と木村文乃、信頼をゆだねようと思える二人のコメント。二週間しか追いかけていないのに、大人になった二人に感動をおぼえた。成長して、ほかの大人たちとも対等に渡り合えるようになっている。人生に対する余裕ができている。この人たちなら、何も心配する必要がないと思えた。また涙が出た。十二年前の修二と彰の像を2017年の現在にひきずっていた自分に気づき、一つけじめをつけることができた。

彼らは思春期のあの頃まとっていた独特の鈍色の空気をぜんぶ十二年前に置いてきて、それでいてなお華やかに今に舞い戻ってきた。かつて修二と彰だった彼らの冷たさと熱さ、鋭さや焦燥はなりをひそめ、亀と山Pとして新たな温かさ、安心感、そして危うさをきっと見せてくれる。彼らの関係性も、若かったあの頃とはだいぶ変わった。亀と山Pとしての活動を通して、彼らが演じた修二と彰の青春、そして彼ら自身の青春に答えを出してくれることを、それを少しでも見せてくれることを密かに望んでいる。

春が来るのが楽しみだ。

 

*1:そのときのゲストにA.B.C-Zがいた

*2:十年来の友人で、彼女はKinKi KidsSMAPの掛け持ちをしている

*3:2015→2016のカウコンで修二と彰の復活を見たときに、これは修二と彰という形式をとった二人であって、当たり前だけれど2005年のあの頃の修二と彰とはまるっきり違うという印象を受けた。でもそんな二人も好き